フェリクス・ホフマン:絵
佐々梨代子/野村泫:訳
こぐま社:発行
おすすめ年齢:4歳~
はじめに
作者のフェリクス・ホフマンさんは、グラフィックデザイナーから教師、そして絵本作家としても活躍し、多彩な才能を発揮されていたようです。
絵本としては主に、グリムの昔話を絵本をとしてお子さんやお孫さんたちに贈り、それを出版もしていたようですね。
すてきなおじいちゃんです。
この「くまの皮をきた男」も、そのようにしてお孫さんたちに贈られた絵本のひとつであり、しかもホフマンさん最晩年の作品とのことです。
ホフマンさんが亡くなった経緯はわかりませんが、最晩年とのことで、何か後世に伝えたい想いが込められた作品なのかもしれません。
「くまの皮をきた男」のストーリー(ネタバレ含む)
物語は、戦争が終わり、ひとりの兵隊が放免されるところから始まります。
平和になったとたんに用済みとなり、隊長から、
どこへでもすきなところへいくがいい
と言われてしまうわけですね。
「いくがいい」て。
それまで尽くしてきてくれた人に対してそれはないんじゃないでしょうか。
ランボーならショックを受けて密林にひきこもりかねないセリフですね。
ご想像通り、この兵隊も少なからず精神的に揺さぶられ、自分の行く末を案じながら自虐的になったようです。
しかし、この兵隊は密林にひきこもるという選択をしませんでした。
そして、道中での悪魔との出会いが彼の人生を劇的に変えていきます。
悪魔は、7年の間、ポケットに金をいくらでも補充してやる、その変わり、その間は死なず、熊の毛皮を着てフリに入らず、ベッドで眠らず、爪も髪も切らずに過ごすこと。
そうしたらその後は死ぬまで金持ちのまま生きていけるぞ、というやや複雑な契約をもちかけます。
そんなむちゃくちゃな、と思ってしまいますが、兵隊には生来の自滅願望があるのか、スムーズに契約をかわしてしまいます。
その後の兵隊は、律義に悪魔との契約を守るわけです。
熊の毛皮を着ながら、入浴も身だしなみの手入れも禁じられているわけですから、当然、髪やひげがぼうぼうに伸び、ルックスが熊に近づいていきます。
そして、人々からポケットの中の金が好かれる一方、兵隊自身は避けられまくります。
そりゃそうだ、という感じですね。
しかし、ある老人を助けたところでまた話が急展開します。
お礼に3人姉妹の誰かと結婚させてあげる、というながれになり、長女と次女からは当然嫌がられるわけですが、末娘だけは…というストーリー展開です。
相手の内面とアニマ/アニムス
私たちは、こどもに対して「人を外見で判断してはいけないよ」と教えることが多いでしょうし、自分がこどもの頃には親から同じようなことを言われてきたと思います。
大人になるにつれて、その人の内面がある程度は外見に表れるということを学んでいくわけですが、それでも相手を外見で判断するのはいけないことだと感じているんじゃないでしょうか。
この「くまの皮をきた男」が、これを読んだこどもたちに与える教訓は、まさにそれです。
物語のフィナーレではどんでん返しが待っており、素敵な男性として表れた兵隊を前にして、結婚を断った長女と次女は悔しがる、という描写があります。
この、水戸黄門が印籠を見せた後のような痛快さ。
これって万国共通なんですね。
スイスの精神科医・心理学者であるユングは、男性の内面にある女性てきなものを「アニマ」と呼び、女性の内面にある男性的なものを「アニムス」と呼びました。
そして、それぞれは、その人の精神的な発達に応じて段階があるといわれているんですね。
アニマは、「肉体的なアニマ」→「ロマンティックなアニマ」→「霊的なアニマ」→「叡智のアニマ」
アニムスは、「力のアニムス」→「行為のアニムス」→「言葉のアニムス」→「意味のアニムス」
という過程をたどるといわれています。
その人の心の成長にしたがって、異性に求めるものが、だんだんと内面的な部分になっていくことがお分かりだと思います。
私たちの周りでも、肉体であるとか、力であるとか、異性の外見的な部分のみに惹かれる人は、未熟な人が多かったりしますよね(もちろんそうではない場合もあるでしょうが)。
まとめ
「くまの皮をきた男」をご紹介しました。
上に書いたようなユングの考え方が、この絵本に表現されているかは分かりません。
作者のフェリクス・ホフマンさんが、絵本を通してそのことをお孫さんに伝えたかったのかも分かりません。
しかし、相手を外見で判断してはいけない、内面こそ大切なのだという考え方は、私たちが生きるこの世界において普遍的なものなのではないでしょうか。
この「くまの皮をきた男」の物語にも、兵隊を拒否した長女・次女と、そうはしなかった末娘との対比に、そういった部分が表現されている、と考えながら読み聞かせると、また違った味わいが出てきそうですね。